生駒里奈さんが卒業を発表したのは、自分がメンバーの顔と名前を半分ほど覚えた頃でした
生駒里奈さんが卒業を発表したのは、自分がメンバーの顔と名前を半分ほど覚えた頃でした
一目見た時からそのダンス、圧巻のパフォーマンスに惹かれました。顔も名前も知らなくても惹きつける力がそこにはありました。
それから、アイドルのするトーク番組が好きな事もあり『乃木坂ってどこ?』『乃木坂工事中』を何回も、繰り返し視聴し、メンバーの事を知っていきました。
ちょうどその全てを見終わった頃にその発表がありました
生駒里奈さんの卒業発表。
その頃の自分は既に、生駒里奈さんの事を知っていました。最初期の連続センター、漫画好きでよく喋る少年顔の少女。それだけの印象でした。
勿論、彼女が喋ると間違いなく面白いので大好きでした。ただ、『そうか、生駒ちゃん卒業か…残念』それ位の気持ちでした。
続く2月、3月にも繰り返し乃木坂について触れ続けました。7年間の歴史を朧げながら辿って来ました。笑いあり、涙ありのアイドルの生き様という物語を遅ればせながら見て行きました。
ただそれは、テレビの番組をただ見ているかのような…どこか一歩引いた、いわゆる『入れ込んで無い』状態でした。
そんな自分が「ライブに行きたい」そう思うキッカケは『Against』のPVでした
乃木坂の最初期を支え続け、作り上げてきた一期生とのパフォーマンス。DNAの螺旋のようにあの頃と違い、確固たる『個性』を持ったメンバー。微笑みかけるのではなく、共に横並びで踊る『戦友』としての皆。
確かな強い意志、熱を感じました。このパフォーマンスを見たい、と思いました。そして気付きました。このパフォーマンスは生駒里奈という存在が一本の大黒柱になっていると。
それから遅まきながら行動しました。そのPVを見た時にはLVは全映画館で終わっていましたが、当日になり片道2時間の場所でチケットを譲ってくださる方がいらっしゃり、そこへ行きました。
曲も全く知りません、100曲以上ある乃木坂46の曲のうち、前述の『Against』を除くと表題曲はおろか二つの手の指で知ってる曲が収まるレベルです。以前乃木坂工事中やっていた「ファンの選ぶ曲選挙」でも殆どの曲がサッパリでした。
それでも、行きたいと思いました。そう思わせる大きな、静かに燃え上がる闘争心、太陽のような熱量があのPVにはありました。
本番6時間前の昼に参戦が決まり、手持ちのペンライトと財布のみで会場に着きました。完全に丸腰です。
その曲は始まってすぐ来ました。20枚目シングル収録曲の流れで察知することが出来ました。
私の知らない生駒里奈の歴史がまだまだある、進んできた路がある、そう感じました。
数時間必死の突貫工事もあり、ライブ登場曲の殆どを知ることが出来ていました。その全てが、乃木坂46であるが故のパフォーマンス、出来栄えでした。
更なる細やかな感想は無粋になってしまいそうなので最後に一点だけ、印象に残った事を述べます。
ラストに入る直前生駒里奈さんがカメラに抜かれます。そこに当てはまる歌詞。
「僕にまかせろ」
齢幾許かの少女だった生駒里奈さん。こんな強気なセリフを放ったとしても全く恥ずかしくない、強い女性になったと7年間を、たった三ヶ月で眺めた自分でさえも強く思います。
これからも先の未来を行く者として乃木坂の、そして皆の希望と貴方はなるでしょう。そんな貴方を出会って数ヶ月の私が心より応援したくなる、そんな人間になった事を私が約束します。
最後にライブ終わりの駄文でしたが、これからの生駒里奈さんのご健勝と未来への躍進を祈ってこの文を締めさせて頂きます。
ご拝読、ありがとうございました。
乃木坂46 20thシングル「シンクロニシティ」考察──────『君は一人だけど一人ぼっちじゃない』
まず、この曲について理解を深めるにはタイトルである“シンクロニシティ”について理解しなければなりません。
長いので簡単に理解したい方は☆の部分から読んでもらえれば大丈夫です。
何らかの一致する出来事(何か意味やイメージにおいて類似性を備えた出来事群)が、離れた場所で、ほぼ同時期に起きることがある。だが、複数の事象が、従来の「因果性」の説明方法ではうまく説明できない場合がある。そうした、同時期に離れた場所で起きる、一致する出来事を説明するためのある種の原理、作用として提示されたのがシンクロニシティである。
(中略)
人々の心(複数の人々の心)にあるファンタズム(夢・ヴィジョン)と主観は同時的に起きているのであって、ファンタズムが起きている時には互いの心に(ファンタズムが)同時的に起きていることに気づいていないが、後になって客観的な出来事が、多かれ少なかれ同時的に、離れた場所ですら起きたと判明することになり、それについて(客観的な出来事が)シンクロ的に起きたのだと確信的に考えることになるという
☆掻い摘んで説明します。
現代科学で説明しきれない”偶然の一致”が起きる要因、結果の事を指し示す言葉として創られたのが“シンクロニシティ”というです。
これらの事項を簡単に抑えた上で歌詞の方を見ていきたいと思います。
曲の世界観として、大きく分けて長さの違う二つの部分に分かれていると考えられます。
まずは前半部分です
『悲しい出来事があると僕は一人で
夜の街をただひたすら歩くんだ
背中丸め俯いて行くあてなんかないのに
雑踏のその中を彷徨う
Keep going…
Keep going…
すれ違う見ず知らずの人よ
事情は知らなくてもいいんだ
少しだけこの痛みを感じてくれないか
信号を待つ間にちょっとだけ時間をいいかい?
この気持ちが分かるはずだ
白石麻衣さんのみ周りを見渡すような振り付け
失意の中、見ず知らずの道行く人に縋りたくなるような夜。
誰でもいい、「私を助けて欲しい」
何も知らなくてもいい、理解されなくてもいい、少しだけこの痛みを和らげてくれないか。そんな叫びを心の中に持ったまま声をあげる事の出来ない一人の人。
そんな人をこの曲のセンターである白石麻衣さんが演じ、“すれ違う見ず知らずの人”を他のメンバーが演じています
この構図は最初から最後まで変わることはありません。
また、一番サビでのメンバーは注目して貰えば分かる通り無表情を貫く人、笑みを浮かべる人など多種多様な表情をしています。
次に注目するべきポイントは二番冒頭
『みんなが信じてないこの世の中も
思ってるより愛に溢れてるよ
近づいて「どうしたの?」と聞いて来ないけど
世界中の人が誰かのことを思い浮かべ
遠くの幸せ願うシンクロニシティ』
『誰かの事を思い浮かべ』にて映る生駒里奈さんによる抱擁するような振り付け。
ここでの生駒里奈さんは前述の構図では『集団の中の誰か一人』です。
そんな“誰か”が目に見えない誰かの事を思う、それは慈しむような愛を与える。一番での歌詞の主人公(=白石麻衣さん)が求めていた事です。
少しメタ的な意味合いが強まってしまうのですが、生駒里奈さんはこの20thシングルを経ての卒業を発表しています。
さらに二番を終えてMVの終盤、センターである白石麻衣さんは一人になります
自らに背を向けた人々の間を通り抜ける白石麻衣さん。
次に注目すべきは白石麻衣さんが自らを抱きしめるかのような仕草をした後全員が内側に集まるような振り付け。
この状態を私は主人公の内的なものの解放の後、前述の“集合的無意識”を現していると考えます。
その集合意識から花開くようなフォーメーションに。全員バラバラの振り付けが始まりますがここで表情に注目してもらうと次第に笑顔が伝播していくのが分かりいます。
この場面を通じ、全員の表情は笑顔になります。一番の時点で僅かなメンバーに浮かんでいた笑顔、つまるところ喜びや希望の感情がタイトルになぞらえて言うならば集合的無意識からシンクロしていったのでしょう。
曲はラストへと向かいます。
『きっと誰だって誰だってあるだろう
ふいに気づいたら泣いてること
理由なんて何も思い当たらずに涙がこぼれる
それはそばにいるそばにいる誰かのせい
言葉を交わしていなくても
心が勝手に共鳴するんだ
愛を分け合ってハモれ』
当曲で二度繰り返されるサビ、この歌詞に“シンクロニシティ”───この曲の本質が詰まっています。
“君は一人だが一人ぼっちでは無い“
当記事に付けたタイトルがこのサビを、更に言うならばこの曲を一文で表現するにあたって私が考えうる言葉になります。
一人ぼっちとは、仲間や頼る人がおらずただ一人であること。そう定義されています。
貴方は一人でも、きっと誰かと繋がってる。目に見えた繋がりが無くとも、心繋がる人がきっと存在する。
実のところ、この歌にて歌われている"シンクロニシティ"が本当に存在する現象なのかは確定的な結論は出ていません。歌詞の通り『胸の痛みが76億分の1になった“気がする“』だけなのです。
それでも、どこかの誰かがこの痛みをきっと分かってくれる。少しだけこの憂鬱を分け合い、受け止めてくれる。
そう思えるだけでほんのちょっぴり、心が強くなれる。
そんなメッセージを私はこの曲から感じ取りました。
この記事が楽曲の理解への一助になれば幸いです。ご精読ありがとうございました。